書くことについて語るときにトレーナーの語ること
どこかで聞いたようなタイトルですみません(笑:村上春樹がお好きな人はピンと来るかもしれませんが、さらにその元ネタは、レイモンド=カーヴァーだそうです)。
今回は、トレーナーとしての仕事のひとつでもある、“文章を書く”ということについて、少しだけ記してみたいと思います。といっても、文章の書き方講座みたいなものではありません。そもそも、他人様に何かを語れるほどの筆力はありませんので……。
それはさておき。
専門誌のライターから書籍翻訳や監修、このコラムの執筆、果ては電子小説まで、私にとって“文章を書く”という行為は、現場でのトレーニング指導と同じくらい身近なものとなっていますし、また、大切にもしています。
そして、
―これって、トレーナー/トレーニング指導員として、じつはかなり大切な要素なんじゃないだろうか? 下手をすれば、専門学校などで必修科目にしてもいいぐらいじゃないだろうか?―
とも思っています。
現場レベルの話で言えば、書くという行為を通じて、「難しいことを簡単に表現する」ことや、「相手に合わせた伝え方の引き出しを増やす」といったトレーニング指導に必要な能力が磨かれることは、言うまでもありません。
しかしそれ以上のメリットが、書くという行為の修行には、あるからです。
いつもお伝えしているとおり、世間から見れば「バーベルのかつぎ方を教えるだけのへんな人」にすぎない我々ですが、じつは、文章を書く機会というのが意外と多い商売です。契約先への報告書や提案書などはもちろん、何かの講師をする際はレジュメやテキストづくり、さらにはふだんの業務連絡メール、最近ではブログやSNSもそうですね。
そんなときに、「あれ? これ、日本語おかしくない?」、「この人、読み手のことを考えずに思いつくまま書いてるんだろうな……」などと思われる文章を記してしまったら、どうでしょうか。どれだけたくさんの知識をもっていても、どれほど立派なキャリアを誇っていても、トレーナーうんぬん以前に社会人として疑問符をつけられてしまうはずです。
逆に、「この人はいつも丁寧なメールだよなあ」、「Facebookの投稿が毎回面白いけど、きっと映画や本をたくさん見たり読んだりしてるんだろうなあ」などと感じさせるほどの文章ならば、たとえ顔を合わせたことがなくても、その時点で何がしかの好印象を抱いてもらえることでしょう。
使い古された言い方ですが、やはり、
「文章はひととなりを、あらわす」
のです。
乱暴な言い方を許していただけるなら、
バーベルのかつぎ方をおぼえる以前に、まともな文章の書き方を覚えた方がいい。
きちんとした日本語ひとつ扱えない人間が、他人様の身体を扱うなんてこと、できるわけがない。
のです。
だから私は、“書く”という行為を、大切にしています。
一人のトレーナーである前に、一人の社会人、一人の大人であることを最低限忘れないために。専門バカ、トレーニングバカになってしまわないための、いわば「自身の命綱」をたしかめるために。
……などと偉そうに言っていますが、このコラムも毎回、「こんな文章で大丈夫だろうか?」と、心配しながら書いているのが実情です(苦笑)。
「命綱」が切れそうな際は(?)、今後ともよろしく御指導いただければ幸いです。